A 疱瘡が御平癒(⛰)とは申しても、あれほ(🏧)どの御大病でございましたので、(😚)さすがに(🐴)御余気が(🕐)去らぬ(📣)らしく時々わづかながら(😇)お熱も出ます(🦐)の(💆)で、そのとしは(🅾)、鶴岳宮の一(😹)切経(💯)会(➖)、放生会、ま(🧝)たその他のお祭りに(💈)も(🎆)将(🏭)軍家のおいでは(🎄)無く、もつぱ(✋)ら御とこ(😱)ろの御(📳)奥に(💻)おひきこもりでござい(😯)ました(🛎)。いや、そ(🥤)のとしば(👹)かりでは(🐂)なく、翌年(🚣)、御余気が全く去(🏆)つ(♒)て、お(🛄)熱が出な(⏬)くなつて(🌸)からでも(🥍)鶴岳宮(🔗)へのお(🔗)参りはなさいませんで(📅)した。その翌々(😈)年も、代参(🧦)ばかりで御自身のおい(👕)ではござい(🍟)ませんでした。三(🚳)年目の、将軍家が二十歳(🤲)にお(🎇)なりのとしの二月二十二日(🕟)に、はじ(🤵)めてお(👩)参りなされたので(🧡)ございますが、当時(💲)の(🚯)人たちは(💩)、将(🌶)軍家がそのお顔(💾)の御疱(🎅)瘡のお跡を(🆙)たれ(🥏)かれ(🥡)に見せ(💬)た(👪)くな(🤥)くて、お宮(⛳)にも、おでま(⏳)しにならなか(🧙)つ(⛎)たのだらう等と(🚩)下(📓)品な臆測をしてゐ(🐻)たやうでござい(🗂)ました。けれどもそれは違ひます。あの(🤡)お方が永く(🕔)御奥に(🔬)ひきこもつて居(🏎)ら(📊)れたとは言へ、決してその間ぢゆう鬱(💸)々(🤽)としてお暮しなさつ(📲)てゐ(🤨)た(📐)わけではな(🛌)く、(🚏)お熱の(🔚)無い時(📼)にはお(🚀)傍(📳)の人たちとお歌を作り合(💬)つて(🥛)たのしげにお笑ひになり、また(👳)広元入道さまや相州さ(🎹)まと(🔦)は(🎮)絶(🌋)えず(🔩)お逢ひなされ(🌘)て幕府のまつりごと(👡)を決裁なされ、以(📘)前とな(✔)んの(⏳)変つたところも無(🍊)く、(⚪)御自分のお顔(🕚)の事(👅)を気になさる素振りなどはそれこ(🛌)そ露ほども(🦇)塵ほども見受(🖍)けられなかつたので(🔒)ござ(🏵)いま(📶)す。本当(🌁)に、下賤の当(🔠)推量は(🌝)、よし(😮)たはうが(⭕)ようござい(💯)ます(🐄)。あれは、(🍣)た(👏)だ、(🔐)将軍家が鶴岳(🍓)宮の御霊に御遠慮なさ(🚣)つただ(🍒)けの事だと私どもは考(🕎)へて居ります。御(👰)父君右大(🏑)将さまと御(🐛)同様(🌧)に、まこと(🤙)に敬(🛰)神の念のお篤いお方で(🦀)ございましたから、御大患(🎙)後(🏗)の不浄の身を以て御参(😌)詣(😍)な(🏢)どは思ひもよらぬ(🏏)事、身(😊)心(🐃)の潔くなるのをお待ちになつてお参(🏓)りしよ(🕰)うと(💊)三年の間、御遠慮を(🍢)してゐただけの話で(🔟)、ま(🍾)こと(🏏)に(💦)単純な、また(🔢)、至極(✈)も(🏍)つともの事(🦃)ではございませぬか。かへ(😽)すが(🕒)へす、し(➗)たり顔の御穿鑿はせ(🐀)ぬことでございます。そ(💓)のとし(👣)の五月二十九日、ま(🦖)だ将(🤘)軍(🐋)家の(😰)御大患(🍳)の御余気も(🏪)去(💮)ら(🤧)ぬ頃の(🐲)事でごさ(🦁)いましたが、久しく京都へ(🚣)おいでになつてゐた御台(🚌)所のお(🕎)侍(🕌)の兵(👔)衛(🛸)尉清(🛄)綱さまが(🕔)、(🔊)京(🐼)のお土産(🥚)として、藤原の基俊さま(📓)の筆になる(📄)古今和歌集一巻を御(👽)ところへ御持参に相成り将軍(🤗)家へ(🕌)献上いたしましたと(🐇)ころが(🚥)、将軍家(👏)に於いては殊のほかお喜び(🤥)なされて、(😲)